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Act.2 ―鳴動―

(一)

 グラウンドに短い笛の音が響く。体操服の生徒達が、バラバラと駆けていく。真面目な生徒もいれば、見るからにやる気のない生徒もいる。杏は?と聞かれれば、たぶんその中間くらいだろうか。やれと言われればやるけれど、率先して何かをやるとか、目標を持って頑張るとか、そういうことをした記憶がほとんどない。成績も真ん中。好きな子はいたけれど、告白なんてとんでもないし、されたことだってない。
 杏はノートを取っていた手を止め、三階の窓から外の景色を眺めた。そよりと白いカーテンがなびく。遠くに連なるニセコの山の稜線が、本格的な春の訪れを教えてくれていた。気付けばもう五月も中旬。遊馬と知り合ってはや約一ヶ月が過ぎようとしていた。

 校舎に終業のチャイムが鳴り響くと、
「キリーツ」
 ここぞと日番が立ち上がった。
 着席の声も待たずに教室の中がわっと騒がしくなる。
「……やばい!」
 と言うなり美月が振り向いた。「北大無理かも」とげっそりとした顔で首を振り、杏の机に突っ伏す。
「なんで?」
「数学サイアク。意味分かんない。リミットって何?極限って?それが私の人生でいつ必要になるのよ?」
「確かに」
 杏は可哀想にと首を振った。
「なまじ目標が高いと乗り越えなきゃならない壁もまた高いのよね」
「何それ」
「頑張れってこと」
 そう言って親友の頭を撫でる杏に、美月はため息をついた。
「杏、あんた受ける気ないでしょ、北大」
「なんで?」
「なんでって」
 美月はジト目で杏を見上げた。
「さっきの発言。まるで他人事みたいに聞こえたんだけど」
「そう?」
「それとも何?天変地異でも起きて急に私より賢くなったとか?」
「まさか」
「だよね」
「あ。何か傷つく」
 膨れてはみたものの、まるで説得力がない。
「絶対苦し紛れに私と同じ大学の名前書いたでしょ。進路希望」
「へへ」
「へへ、じゃないよ」
 まったく、と口を曲げて顔を上げた美月は、「それよりさ」と突然話題を変えた。さっきまでの仏頂面はどこへやら、今度はまるで探偵にでもなったかのように嬉々とした顔で手帳を開いてみせる。
「彼とはどうなったの?」
「彼って?」
 杏が首を捻ると、美月は「はあ?」と眉を寄せた。
「藤原さんに決まってんじゃん」
「アスマの事?メイジ牧場の」
「他に誰かいるわけ?」 鋭く美月が詰め寄る。
「カッコイイよね、彼」
「そうかな」
「幾つ上だっけ?」
「三つくらいじゃなかったっけ」
「ふーん」
 ……で、どうなのよ?と美月が覗き込む。
「どうもこうも」
 別に、と杏は首を振った。
「ピー子の写真撮りに行ってるだけだし」
「どうだか」
「何よそれ」
 杏はそっぽを向いて窓の外を眺めた。美月がつまらなさそうにその視線の先を追いかけた。渡り廊下で数人の男子がボールを投げ合って遊んでいる。かと思えば、ベンチの上にあぐらをかき、くだらないカードゲームを広げている集団もいる。まるで子供だ。

「そだ、写真見せてよ」
「今?」
 杏は美月に視線を戻した。
「持ってないの?」
「まあ何枚かは」
 机の横に引っかけていた鞄からファイルを取り出す。それを美月に手渡すと、杏はもう一度窓の外に視線を移した。
 何だか嫌な胸騒ぎがする。朝からずっと。それが何か分からないまま、杏はボンヤリと空を見上げた。春だから?それとももうすぐ生理だっけ?などと考えてみても、空から答えが降ってくるわけじゃない。すると美月が「わ!」と歓声を上げた。
「ちょっと杏、いいじゃん!」
「何が?」
 我に返った杏は、美月が見ている写真に気付いて「あ!」と叫んだ。
「返して!」
「ダメ」
 杏の手をヒラリと美月がかわす。その写真には、遊馬の横顔が映っていた。
「何が別に、よ」
 美月が杏の真似をする。
「違うんだって。これはアスマが撮ってくれって言うから撮っただけで」
「またまたあ。コレってどう見ても盗み撮りじゃん」
「違うってば!」
「いーからいーから」
「返せ!美月!」
 二人して騒いでいると、チャイムと同時に教室の扉が開いた。
「授業始めるぞー」 と、もっさりとした声の古文の北橋先生が教壇に登る。
「あとで聞かせてよね」
「ホントに何もないってば!」
 キリーツ、と椅子を引く日番の声に立ち上がりながら、杏は美月の手から写真をひったくった。

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ジャンル: 小説・文学

プロローグ

 いつも星空を眺めていた。
 凛と冷えた夜空はどこまでも透き通っていて、決して飽きることはなかった。

 冬の至宝シリウス
 夏の恒星ベガ
 奇跡の星アークトゥルス
 北天の宝石アルビレオ
 季節とともに移ろう星空は、まるで宇宙の宝石箱のように美しい。
 とりわけ夏の夜空は特別で、天球にきらめく天の川を、僕はいつまでも見つめていた。

 『死者を乗せて走る列車、銀河鉄道』
 そのイーハトーヴ童話に登場する列車に乗ることが、子供の頃からの夢だった。
 それこそが失ってしまった大切な人と再会できる唯一の光なのだと、
 温もりに包んでもらえるたった一つの方法なんだと、
 ずっとそう、信じていたから。


 2009年夏――

 紺碧の夜空の下、空っぽになった心を引きずるように、僕は一人草原を歩いていた。坂道の中ほどで息を整え、左手に本を持ち替える。真夏にしてはひどく涼しい夜だった。
「もう少し」
 前髪をかき上げ、まっすぐに続く砂利道の先に目を向ける。
 丘の上に建つ白い小屋。その背後には満天の星空が広がっていて、まるで小屋だけが夜空に浮かんでいるようにも見えた。
「ただいま、玲奈」
 ようやく丘の上にたどり着くと、僕は小屋に向かって声をかけた。
 なぜかそこに彼女が居るような気がした。
 幻じゃない。夢なんかでもない。すぐ側に手を伸ばせば届きそうな温もりを感じて、もつれるように歩を進めると、突然足元の露草が風に揺れ、音もなく夜空に舞い上がった。
『おかえり』
 ふと、近くで声が聞こえた。
「玲奈?!」
 咳き込むように見上げると、うしかい座のアークトゥルスが僕を見下ろしていた。
「……まさか、ね」
 僕は乾いた笑いをこぼし、崩れるように丘の上に寝転がった。
 四肢を投げ出し、耳を澄ます。風の音、夏草の囁き、それに、微かに奏でる鈴虫達のさえずりが、火照った体を静めていく。
 北極星が見える。
 それだけじゃない。今夜は一段と星がよく見える。まるで降ってくるようだ。そのあまりの星の数に、僕の心がサワリと騒いだ。

 今でもはっきり覚えている。五年前、初めて玲奈とこの丘に登った夜も、同じように星で溢れていた。
『私の家の側にとっておきの場所があるの。ねえ、今から見に来ない?』
 あの日、玲奈はそう言って僕に笑顔を向けた。
 愛らしい彼女の仕草や声、初めて交わしたキス。生涯変わらぬ愛の誓い……。どれだけ月日が流れても、決して色あせることのない記憶が次々と蘇る。
 僕はおもむろに体を起こし、小屋のノブを回した。ギギ、と軋んで開いた扉から、月に照らされた僕の影が伸びていく。部屋はまるで夢見の森のように静まりかえり、木組みの床に落ちた小さな埃でさえもが、淡い燐光の中でキラキラと輝いて見えた。
 六畳ほどの小さな部屋。
 その真ん中に、青銅色の天体望遠鏡がたたずんでいた。
「……お邪魔します」
 僕はそろりと足を踏み入れ、その望遠鏡の横をすり抜けて、部屋の隅にある机の上に手にしていた本を置いた。それからシャツの襟を緩め、ガンッと固い窓の木枠を押し開く。
「今日は星祭りですよ」
 誰に言うでもなく呟き、窓から身を乗り出して銀色に彩られた街を一望すると、夜空と同化した街のそこかしこに、家々の灯りや街路樹の電飾が見え隠れしていた。
『まるで星空みたいでしょ』
 玲奈の言葉を思い出す。
 窓枠に両肘を乗せ、嬉しそうに微笑む横顔に、僕は何度見とれたことだろう。
 僕は再び本を手に取り、天井部屋へと続く階段に足をかけた。床板を鳴らし、微かに埃の匂いが漂う階上に足を踏み入れると、夜空をしらしらと流れる天の川が、天窓いっぱいに広がっていた。
 子供の頃、いつも星空を眺めていた。
 遠い記憶が蘇る。
 いや、今だってそうか。などと苦笑混じりに腰を下ろし、板張りの床に触れてみる。――そこにはいつも玲奈がいた。
 未だに彼女の残像を追いかけている自分に苦笑いを浮かべ、僕は瞳を閉じた。
 玲奈はもう、この世には居ない。
 いくら頭で理解しようとしても、心がそれを受け入れない。鮮明に焼き付いた彼女の姿が、声が、僕の心に染み込んで離れないのだ。
 僕は狭い天井部屋の壁にもたれ掛かり、本を星空にかざした。
『銀河鉄道の夜』
 表紙にそう刻印された本の輪郭が、夜空と混ざり霞んでいく。

 ――ケンタウル祭の夜、牧場の丘の上で、ジョバンニは天の川を走る列車に乗り込む。そして、期しくも乗り合わせていた親友のカムパネルラと共に銀河を旅し、やがて列車を後にする。そして知らされるのだ。彼は、カムパネルラは死んだのだと――

 死者を乗せた列車、銀河鉄道。
 もしこの世にそんなものが存在するのなら、どうか神様、今僕の目の前にその幻想的な列車を呼び、そして玲奈に会わせて下さい。彼女に伝えたい言葉がある。言葉にできない思いが、あの街の向こうの山ほどもあるんです……
 星空を見つめる僕の目尻を、一筋の涙が伝い落ちた。
「……玲奈」
 麦わら帽子から顔を覗かせ、くすくすと微笑む妻の顔が浮かぶ。
『オズベル』
 彼女の澄んだ声が耳に響く。
 玲奈、玲奈、玲奈……
 ふと我に返り、指先に付いた埃を見つめたその時、
 ――ズバンッ!!
 と突然、天窓から強烈な光が差し込み、部屋中が真っ白に輝いた。
「うわッ?!」
 何が起こったのか分からないまま、必死に手をかざす。激しい暴風に小屋が揺れ、再び網膜が焼けるような閃光が走った。髪の毛は乱れ、服は激しく波打ち、まともに体を支えることすらできない。壁を伝い、懸命に階段を降りると、今度は地鳴りのような震動音がどこからともなく聞こえてきた。
「いったい……ぐっ!」
 息つく間もなく横殴りの突風に煽られ、よろめきながら小屋を出る。柱を背に縦横に吹き荒れる強風に耐えていると、今度は列車の車輪が軋むようなけたたましい金属音が鳴り響いた。
 そして、みたび閃光。
「やめろ!」
 僕は叫んだ。
 僕の、玲奈の、そしてお義父さんの大切な小屋を傷つけないでくれと、光に向かって目一杯に両手を広げた。
 眩しい。だけど温かい。
 光の中で、僕は大きく目を見開いた。
 光はどんどん広がっていった。
 瞳孔が針のように絞られていく。
 やがて視界すべてが遮られたとき、僕の意識は体ごと閃光に飲み込まれて消えた。

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「……それで?」
 放課後、杏と美月は並んで自転車を走らせていた。
「何がよ」
 洞爺湖の湖面に二人の陰が揺れる。
「何がよ、じゃないでしょ」
 美月のスカートがフワリと舞う。
「藤原さんの写真」
「しつこいなあ。何もないって言ったじゃん」
「へー」
 美月はあからさまに疑いの目を向けた。
「な、何よ」
「別にぃ」
「もう……」 杏は不意に自転車を止めた。
「何もないって言ってるのに!!」
「えーでも」
「ホントにたまたまピー子の写真を撮ろうとしたらアスマが顔出して、それで一緒に映っちゃっただけなんだから!!なのに美月ってばすぐそうやってからかうから」
「分かった分かった」
 ごめん。と美月は自転車を降り、杏に向かって頭を下げた。

「そんなに怒んなくてもいーじゃん」
 数分後、コンビニから出てきた二人の手にはいちごカプリコが握られていた。杏に奢らされたのだ。もっとも、それで機嫌が直るのだから安いものだが。
「だってしつこいんだもん」
「はいはい」
「反省してない」
「してるって」
 二人は片手でハンドルを握りながら、再び自転車を走らせた。
「ま、今回は許したげる。カメラって面白いなってまた思えるようになったのも美月のおかげだしね」
「ですよねー」
「……もう」
 杏は美月を軽く睨みつけ、林の向こうに目を向けた。遠くに牧場のサイロが見える。
「でもさ」
 口をもごつかせながら美月が尋ねた。
「なんで一度止めちゃったわけ?中学の頃なんか毎日持ってたのに」
「んー」
 杏は口を尖らせた。答えに困った時、杏はいつもこんな口をする。
「こんなの乙女の趣味じゃない!って気付いたとか?」
「うんん」
「二の腕が太くなったとか?」
「何それ」 杏はケラケラと笑った。
「ママから聞いたの。パパも写真を撮るのが大好きだったって」
「へえ」
 それで?と美月が促す。
「一緒ね、って言ったんだ。ママ」
 杏は大きな口をあけて残りのカプリコを放り込んだ。
 もちろん、その時の雪乃の言葉に他意はなかったのかも知れない。けど急に怖くなった。もしかしたらママは自分の事も嫌いになってしまうんじゃないかと。
「それで止めたんだ」
「……うん」
 まあね、と杏は頷いた。
 それから思いっきり自転車をこいで美月の前に出ると、今度は大声で「でもね!」と続けた。
「もうなんかそう言うの止めよって思ったんだよね」
「そう言うのって?」
「何て言うのかなあ。親の顔色見て行動するみたいなところ」
「ああ」 と美月が頷く。
「あんた昔からそうだもんね」
「でしょ。進路希望の紙渡されてもさ、よぎるのはママの顔ばっかでぜんぜん自分のしたいこととか思い浮かばないんだもん」
「杏らしいよ」
「まーね」
 笑いながらカーブを曲がる。大きく右端から左の側道へ。対向車がないからいいようなものの、担任に見つかりでもしたら大目玉だ。
「でも吹っ切れたんでしょ?!」
 真っ先に坂を下りながらスカートをなびかせている杏に、美月が大声で呼びかけた。
「美月とピー子のおかげでね!」
 杏の答えは明快だった。
「そっか」
 良かったじゃん、と微笑むと、美月も思い切りペダルを踏み込んだ。
 ひとしきり春風を切って自転車を走らせた後、二人は少し開けた脇道から湖畔の芝生に転がり込んだ。は、は、と息を整える。杏の視線の先に、何週間か前に父が講演をしていたビジターセンターが見えた。
「……そう言えばさ」
 汗で張り付いた前髪をかき上げながら、杏が口を開いた。
「この前パパを見たんだ」
「どこで?」
「あそこ」
 寝ころんだまま振り向いた美月にセンターを指さす。
「ま、それだけなんだけどね」
「それだけって……何か話したの?」
「ううん。遠目に見ただけ」
「ふーん」
 そっか、と言ったきり口よどむ美月に、杏はふと思い出した様子で顔を上げた。
「そだ。言い忘れてたけど、会場に入る時に名前書かないといけなかったから、思わず美月の名前使っちゃった」
「ちょっと!」
 咄嗟に美月が跳ね起きた。
「勝手に親友の名前使わないでよね」
「言うと思った!」
 杏が手を叩いて笑うと、二人はじゃれ合うように芝生の上を転げ回った。

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(二)

 五月も終わりに近づいたこの日、旅館「星街」の厨房は目の回るような忙しさに見舞われていた。
「そんないいモンかな?」
 千帆が仕込みの手を止めて首を傾げると、
「さあな」
 その横で若い男が顔を上げた。白い調理服に三角巾。さほど汚れが染みついていないところを見ると、彼も千帆と同じく駆け出しなのだろう。ただし、千帆とは違って彼の手は一秒たりとも止まらない。
「でもま、おかげで忙しくしてられるんだからいいっしょ」
「忙しすぎだし」
「暇よりましだろ」
 コキリと首を鳴らし、慣れた手つきでエビの背わたを取っていく。
「それに、手当出してくれるって女将さんも言ってたし」
「そーだけど」
 千帆が頬を膨らませていると、厨房の奥から雪乃が顔を出した。
「千帆さん、ちょっと」
「はーい」
 千帆はこれ幸いとばかりに手を洗い、割烹着を取って雪乃に駆け寄った。
「どうかしました?」
 屈託ない笑顔が跳ねる。その顔を雪乃が諫めるように覗き込んだ。
「なあにその顔。仕込みの手伝いも大事なお仕事よ」
「分かってますよ。で、何です?」
「……もう」
 小言の一つも言いたいところだが、今はそれどころではない。優先させるべきことが他にあった。
「お客様がいらしたの。ちょっと今手が離せないからお願いしていいかしら」
「はーい」
「女将さんもまだ戻られてないし、くれぐれも粗相のないようにね」
「任せて下さい!」
 踵を返して走りかける千帆の背に「ダメよ」と声を掛けると、途端に姿勢を正して歩き出す。そんな姿につい笑みがこぼれる。千帆を見ていると、娘の杏と姿がだぶる時がある。分かりやすい性格が重なるのか、単に年が近いせいか。とにかく憎めないのだ。

「さて、と」
 雪乃は表情を引き締め、再び事務室に引き返した。
 四畳半ほどのそれほど広くはない部屋に執務机が一つ。机には電話と帳簿が置かれ、その横にはパソコンが一台。目の前のホワイトボードには、今日明日の宿泊客の予約票が所狭しとセロハンテープで留められていた。それを横目に息をつく。
「そんなにいい物かしら?」
 雪乃は千帆と同じことを言いながら、パソコンに向かって眼鏡を掛けた。
 明日来館予定の顧客リストから、部屋の要望や食事の内容を確認して印刷する。客の半分は今日からの連泊だ。五月に入って観光客が増え始めたとはいえ、この時期に部屋がすべて埋まるなどそうあることではない。それが、この二日間で一組のキャンセルが出た以外満室の予約を受けていた。もちろん、これには理由があった。プリンタから吐き出された紙に赤ペンでチェックを入れ、「よし」と呟く。そこへ女将の沙織が顔を出した。
「ただいま」
「あら、もう終わったんですか?」
 雪乃が驚いた顔を向けると、沙織はニコリと微笑んだ。
「途中で抜けて来たの」
 旅館組合の会合から戻った沙織は、悪びれる様子もなくそう言うと、雪乃が印刷した紙に目を通した。
「西院社長はもう見えた?」
「まだです」
「そう」
 それは良かったわ。と悪戯っぽく微笑み、慣れた手つきで髪を結い直す。
「ビックリなさるでしょうね。社長」
「そうね。何でこんなに客が多いんだ!って言われそう」
 沙織は鏡ごしに笑い、「でも、さっきどなたか来られてたみたいだったわ」と雪乃を見た。
「ええ。千帆さんにお願いしました」
「予約のお客様?」
「と思いますけど。何せ今日は一部屋しか空きがないですから」
 そう言いかけた時、千帆が顔を覗かせた。
「雪乃さん……あ」
 お帰りなさい、と女将に頭を下げ、実は、と切り出す。
「さっきのお客様、予約なさってらっしゃらないんですけどどうします?」
「ならキャンセルのあったお部屋にお通し差し上げて」
「分かりました」
 千帆が頷いて姿を消す。
 すっかり身支度を調えた沙織は、一つ息を吐き出し、胸元で小さく拳を握った。
「これで満室御礼ね」
「流星群様々ですね」
「ホント。でも、そんなにいいものなのかしら?」
「みたいですよ」
 雪乃が答えながら事務所の隅に目を向ける。そこには、宿泊客が事前に送りつけてきた望遠鏡やキャンプセットのような物が幾つか積み上げられていた。
 明日の夜、『カシオペヤ流星群』なるものが見えるらしく、各地から観光客や写真家がやってきているのだ。もちろん、流星群自体は日本のどこからでも見えるのだろうが、緯度や天気、標高などを考えて、この地を選ぶ人が多いと聞いた。
 おかげで洞爺湖温泉街は、一足早い観光シーズンを迎えたような活気に湧いていた。

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 カシオペア流星群――正確にはペルセウス流星群は、本来夏の夜の風物詩で、例年なら8月中旬に日本中で見ることができる。長い年月をかけて太陽の周りをまわっている周期彗星で、その彗星が太陽に接近した時に蒔き散らした「塵の帯」の中を地球が通り抜ける時、流れ星が現れる。

「よく分からないけど神秘的ね」
 沙織は雪乃の説明を聞きながら、あら?と首を傾げた。
「今日はまだ5月26日よ」
「ええ、今年は周期がずれてるんですって」
 雪乃は千帆が面白半分で買ってきた『天体図鑑』を棚に戻しながら、「お客様がおっしゃってました」と付け足した。
「だからこんな騒ぎになってるのね」
 沙織が納得顔で着物の裾を直していると、
「こちらです」
 廊下から千帆の声が聞こえてきた。先ほどの客を部屋に案内するのだろう。
 足音が二つ聞こえる。一つは千帆、もう一つはお客。どうやら一人での宿泊であるらしい。物静かな人だとすぐに分かる。何年かこの仕事を続けていると、歩き方や足音、歩幅などで相手の人となりが自然と推測できるようになるから不思議だ。
「雪乃さん」
「はい」
 女将に促され、雪乃は事務所を出た。
 廊下を千帆が歩いてくる。客の顔は千帆の影になっていて見えなかったが、思ったとおり一人であるらしかった。よれたバッグを肩に背負い、振り返るようにしてロビーのテレビを見つめている。背は千帆より少し高い程度だから、男性にしては低い方だろう。
「ごゆっくりどうぞ」
 目の前を通りかかった客に頭を下げる。とその時、足音の一つがハタと止まった。
「……お客様?」
 千帆の戸惑った声が続く。
 雪乃はそっと顔を上げた。瞬間、言葉を失った。
 見知った顔がそこにあった。
 その顔は酷くやつれ、突然の再会に驚きを隠せない様子だった。
「雪乃」
 しゃがれた声で男が呟いた。
 雪乃は目を見開いたまま、よろりと一歩後ずさった。
「……誠二……さん」
 やっとそう呟いた雪乃の顔は、誠二と呼ばれた男以上に凍り付いていた。

 それからの雪乃は、明らかに様子がおかしかった。
「大丈夫ですかね?」
 様子を見に来た沙織に千帆が歩み寄る。
「雪乃さん、さっきのお客様と昔何かあったんですかね」
 知ってます?と尋ねる千帆の言葉をよそに、沙織はため息をこぼした。雪乃は夕膳の支度をしていた手を止め、どこを見るでもなく視線を落としている。
「雪乃さん……あの」
 千帆が声をかけてみたところで、返事が返ってくる様子もない。
「ほらほら、早くお膳を運んでちょうだい」
 沙織は千帆を追い立てながら、あることを思い起こしていた。
 かつて、沙織は同じような雪乃の姿を見たことがある。
 六年前――初めて彼女と出会った日のことだ。
 夫と別れ、行く宛を無くしていた雪乃は、小さい娘の手を取り、バス停のベンチで白い息を吐き出していた。目はどこか虚ろで、頬は窶れていた。元々白い肌がまるで粉雪のように色が抜けて、今にも風に溶けてしまいそうに見えた。
「どうしたの?」
 買い出しから旅館に戻る途中、沙織は雪乃に声をかけた。
「……いえ。何も」
 そう言った雪乃の唇は、カサカサにひび割れていた。
 それが先ほどの客――確か、田原誠二と言ったか――と関係があるのかは分からない。六年経った今でも、雪乃はあの時のことを語らないのだ。
「心配ね」
 沙織は千帆に「時々様子を見ててもらえるかしら」と言付けて事務室に戻っていった。
 腑に落ちないのは千帆だ。
「はあい」
 と返事はしたものの、何があったのか知りたくてしょうがない。かと言って本人に訊けるはずもなく、女将も話してくれる様子はない。
「ダメ。仕事が手につかない!」
 千帆が膨れていると、突然玄関の戸がガラリと開いた。と同時に、聞き覚えのあるだみ声が飛び込んでくる。
「出迎えなしとは忙しそうやの」
 ガハハと笑うその声に、千帆はゲンナリと肩を落とした。
「申し訳ございません。今ちょうど立て込んでおりまして」
 慌てて顔を出した沙織が膝を折ると、西院社長は「構わん構わん」と高笑いしながら戸口を跨いだ。

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 西院はド派手なストライプの入ったダブルのスーツを脱ぐと、汗まみれのそれを沙織に押しつけた。小さいとは言え老舗旅館の女将をまるで自分の愚妻とでも勘違いしているかのようなその振る舞いに、千帆が小声で「うえ」と毒づく。
「セリはいかがでしたか?」
「それよ」
 嫌がる仕草など微塵も見せず、荷物を手に沙織が尋ねると、西院は渋い顔で廊下を大股に歩き出した。先月の来訪から一月。この日は競走馬を競りにかけるセレクトセールの初日だった。
「上首尾……とはいかんでな」
「あら」
「先月わしがツバ付けとった馬が江藤はんと競合してな、結局倍ほどしよった」
「まあ」
「せやけど最後にはわしがビシッと締めて落札よ。2500万。たっかい買い物やが江藤なんぞに渡してたまるかっちゅう話よ」
「それはそれは」
「ところで、雪乃はどうした?」
 西院が事務所を覗き込む。
「今ちょっと外に出ておりまして」
 沙織が反対側の厨房に目をやると、ピタリと雪乃と目が合った。その顔は益々強ばり、色を失っているように見えた。
 大丈夫よ、と無言で頷く。雪乃は弱々しく首を横に振った。それが少し気になったものの、まずはこの問題児を部屋に押し込んでしまう必要があった。
「お部屋は二階の奥になります」
 先頭に立ち、西院を階段へと誘導する。
 案の定、西院を部屋に通して戻ってきた沙織を、雪乃がすがるように引っ掴んだ。
「いけません」
 開口一番、雪乃は言った。
「……いけません」
 譫言のように訴える雪乃の表情が、尋常ではない何かを予感させる。何事かと手を止める仲居たちに作業を続けるよう目配せし、沙織は雪乃を事務所に招き入れた。
「どうしたの?」
「すみません」
 雪乃は悲痛な表情で顔を伏せた。
「それじゃ何がいけないのか分からないわ。ちゃんと説明してもらわないと」
 沙織は雪乃の手を取り、なるべく優しい声で促した。
「それは、その」
 言いかけてまた、口をつぐむ。
 沙織はじっと待った。
「あの……」
 雪乃はしばらく躊躇ったものの、最後は細い息を吐き出した。
「彼……誠二さんと西院社長は、絶対に会わせてはいけないんです」
「どうして?」
 問い返しながら沙織は首を傾げた。二人の関係のことは確かに気になる。けれどもう一つ。雪乃はまた、あの客のことを「誠二さん」と名前で呼んだ。
「……以前、西院社長がメイジ牧場様の生産馬を壊してしまわれたことはご存じですよね?」
「有名な話よね」
 沙織は小さく頷いた。
 かつて、サイインサンキューという競争馬がいた。美しい芦毛(白っぽい毛質の競走馬)の彼女はしかし、その容姿からは想像できないほどの根性娘だった。サンキューは強かった。G1こそ勝てなかったものの、重賞(G1に次ぐビッグレース)3勝を含む計5勝をあげた。牡馬が相手でも、古馬(年上の馬)が相手でも、彼女は一生懸命ゴールを目指した。そのひたむきな姿は多くのファンの共感を呼び、いつの頃からか「キューちゃん」と呼ばれ親しまれるアイドルとなっていった。
 彼女が不幸だったのは、彼女の馬主が西院だったことだった。馬を経済動物としか見ていない西院は、彼女を休ませることなくレースに使い続けた。サラブレッドの脚は細くて脆い。やがてサンキューは脚を痛がり、走りに精彩を欠くようになった。ファンから苦情が殺到した。誰の目にも限界を超えていることは明白だった。それでも西院はサンキューを休ませることはなかった。彼女はまるで魂を削るように、すべてのレースに全力で走り続けた。そして悲劇は訪れた。サンキューはレース中に脚を粉砕し、その場で予後不良(安楽死処分)となったのだ。
 サンキューの遺体は生まれ故郷であるメイジ牧場に届けられ、多くのファンに見守られながら手厚く埋葬された。彼女が牧場に帰ってきたのは、西院に引き取られて以来、その時が最初で最後だった。メイジ牧場で西院という名前が禁句なのには、そう言う理由があった。

「その壊れされた馬に乗っていたのが誠二さんなんです」
「……え?」
 あまりに意外な言葉に、沙織は思わず声を上げた。同時に事務所の戸外が騒がしくなる。沙織は一つ大きな咳払いをすると、再び静かになった部屋で雪乃の手を取った。
「つまり、あのお客様……田原様は騎手なのね」
「元、ですけど」
 と雪乃は頷いた。
 その事件をきっかけに、田原は騎手を廃業したのだ。
「そして、あなたの事もよく知っている」
「……ええ」
「分かった」
 沙織は小さく膝を叩き、これ以上の詮索を止めた。
「幸い田原様は一階、西院社長は二階の奥と離れた部屋にお通ししてるから、お風呂を除けば顔を合わすことはないわ」
「そう、ですね」
「お二方には入浴のタイミングをずらしてお勧めするから心配しないで」
「すみません」
 雪乃が深々と頭を下げる。
「ほら、顔上げて」
 沙織は雪乃を立たせると、夕膳の支度を急ぐよう言い付け、「大丈夫?」と念を押した。
「ええ」
 大丈夫です、と答えた雪乃の顔には、幾らか生気が戻っているように見えた。

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(三)

 桔梗色に染まり始めた空と、牧草がなびく緩やかな丘が混ざり合う。その中を、まるで春風とじゃれ合うように仔馬が跳ねた。
 カシャ、カシャ、と遠くでシャッターを切る音がする。
 その人影は、いつぞやの場長の言いつけどおり、半ば朽ちた牧場の柵の外から仔馬にレンズを向け続けていた。
「案外律儀なんだよな」
 遊馬は作業着に手を突っ込んだまま、その光景を遠目に眺めていた。
 もっとも、律儀だからこそ今でもこうしてピー子を連れてきてやってるわけで、もし言いつけを守れないようなら、とっくの昔に門前払いしているところだ。
「ピー子、帰るぞ」
 遊馬が短く口笛を鳴らすと、仔馬がひょいと顔を上げた。
 もう?とでも言いたげなその顔に、「だーめ。馬房に戻らないと」と笑顔で返し、駄々をこねる子供を諭すように、ピー子の鼻面を優しく撫でる。
「話してるみたい」
 柵の外で杏が笑った。
 遊馬は「話してるんだよ」と真顔で答え、ところでさ、と続けた。
「いつになったらその写真見せてくれるんだ?」
「だから、アスマが煙草やめたらって言ったっしょ」
「またそれか」
 遊馬はハハッと短く笑い、ピー子の手綱を引いて杏に軽く手を挙げた。
「じゃな。美月ちゃんによろしく」
「はいはい」
「気をつけて帰れよ」
「へいへい」
 子供じゃあるまいし、と苦笑いで自転車に跨り、杏はヒラヒラと手を振った。
 二人はいつもこんな感じだった。ピー子の放牧時間を遊馬に教えてもらっている杏は、気が向くと牧場に足を運んだ。遊馬が姿を見せるのは、ピー子を馬房に連れて帰る時だけで、それまでの間はひたすらのんびりと写真を撮る。それはそれで楽しいのだけれど……
「何その進展のなさ」
 と言うのが美月の厳しいジャッジだ。
 まあね、などと思わなくもないのだが、別に遊馬とどうにかなりたいと思ってるわけじゃないんだから、他人にとやかく言われる筋合いはない。……はず。
「美月のバカ」
 杏が半ば八つ当たり気味に自転車を押しかけたその時、
「あ、思い出した」
 と遊馬が振り向いた。オレンジと青が混ざり合う逆光の中で、遊馬に引かれるピー子のたてがみがフワリと揺れた。
「今度お前が来たら話そうと思ってたんだけど」
「何?」
「お前さ、流星群って知ってる?」
「流星群?」
「何だ」
 知らないのか、と遊馬は呟いた。
「テレビでやってたろ。何でも今夜、この辺りでカシオペヤ流星群が見えるんだと」
「うそ!」
 途端に杏の目が輝いた。
「ちょっと。その話詳しく聞かせて欲しいんだけど」
 杏は跨っていた自転車を放り投げ、番記者よろしく詰め寄った。
 何でも遊馬の話では、今夜未明にカシオペヤ座にほど近い空で流星が見えるらしく、全国の天体マニアが集まってきているらしい。
「……流星かあ」
 杏はまだ星の見えない北の空を見上げ、考え込むように腕を組んだ。ぶるる、とピー子が鼻を鳴らす。杏は柵越しにその額を撫でてやりながら、あのさ、と遊馬に切り出した。
「あたしさ、流星群とは関係ないんだけど、どうしても撮ってみたい写真があるのよね」
「どんな?」
「アスマも見たことあると思うんだけど、こう、北極星を中心にして、その周りの星がぐるっと円を描いたような写真」
 説明しながら、指でクルリと円を描く。
「ああ」 遊馬は頷いた。
「小学生の時だっけ、理科で習ったような気がするな」
「それそれ!」
 杏はすっかり上機嫌だ。
「あれはね、カメラのズームを無限大にして、それからシボリを二段階くらい絞り込んで撮るの。それも一晩中」
「へえ」
「結構難しいのよ。まず空が夜の間ずっと晴れてないとダメだし、風でカメラがぶれてもダメ。それに……」
「分かった分かった」
 遊馬はひとまず杏を押しとどめた。この調子じゃ当分終わりそうにない。
「何よ。まだ話終わってないんだけど」
「だから」
 遊馬は苦笑いを浮かべ、ピー子の首筋をひとしきり撫でた。
「お前の話に付き合ってたら、こいつを連れて帰れなくなるだろ」
「あ」
 そっか、と杏が呟く。それから「でも」と顔をしかめた。
「何でそんな話をあたしに?」
「実は牧場の先輩が有珠山の外れにコテージを持っててさ。今夜泊まり込みで観に行くことになったんだ」
「えー!いいなあ!」
「だろ?」
 遊馬の顔がニヤリと緩む。
「何それ自慢?」
「まあな。何なら俺が撮ってきてやろうか」
「全然嬉しくないし」
 杏は心底羨ましそうに頬を丸め、ジト目で遊馬を睨み上げた。
 もちろん、それに怯むような遊馬じゃない。
「ま、今度会った時にでも話聞かせてやるよ」
 じゃな、と言って背を向ける。
「いいなあ……」
 杏は俯き加減に口をつむったあと、逆光が差す遊馬の背中に向かって顔を上げた。
「私も行く」
「……は?」
 振り返った遊馬に、杏は畳みかけるようにまくし立てた。
「ママは今日夜勤だし、他に家に誰もいないし、それにアスマの他にその先輩がいるなら二人きりじゃないし、もしかしたら美月も来れるかもしれないし」
「いやでも」
「どうしても撮りたいの!」
 拳を握って詰め寄る杏に、遊馬はポリ、と鼻を掻いた。
「……オヤジさんに何て言うんだよ。普通許さないだろ?」
「パパはいないよ」
 離婚したもん、とは言わなかった。別に隠した訳じゃない。敢えて話す必要もないと思っただけのことだった。

>>続く

テーマ: 自作連載小説
ジャンル: 小説・文学

ペルセウス流星群 夏の風物詩の一つ、ペルセウス流星群が、8月12日夜~13日未明に活動のピークを迎え、各地で観測されたようです。今年は満月に近い明るい月が邪魔になり、観測には不向きだったようですが、北海道内は高気圧に覆われて雲が少なく、夜空に多くの星が流れたのだとか。写真は洞爺湖や有珠からほど近い支笏湖の湖畔で撮影されたもの。
 折しも、物語ではちょうど、杏と遊馬が季節外れの流星群を見に、有珠の山頂に登っている最中。二人にも同じような光景が見えるのでしょうか。
 お気づきの方もいらっしゃるかも知れませんが、少し前の記事で旅館「星街」の女将・沙織が「今日」の日にちを話しています。そして、プロローグでは、杏の父・真一が、スポーツ新聞の日付にため息をこぼし、その後有珠の異変を知らせる三浦が駆けつけています。ゆったりと進んできたこの物語も、そろそろ転換点を迎えようとしています。鼓動から鳴動、そして激震へ。そろそろ僕も気合い入れねば!という感じでしょうか。

では、また。

テーマ: 雑記
ジャンル: 小説・文学

 西に傾いた夕陽が、洞爺湖に浮かぶ中島を朱色に染めていく。夏至が近いせいだろうか、近頃随分日が長くなってきたように思う。
 杏はバスに揺られながら、リュックの中を覗き込んだ。
 カメラ、三脚、レンズ、フィルム、レリーズ、星座版と方位磁石。それから、着替えにタオルにメイク道具に歯磨きセット。
「あと何だっけ」
 メモ帳にチェックを入れながら、何度も忘れ物がないか確かめる。ちなみに、レリーズとは遠隔でシャッターを切る時に使うケーブルのことで、手ぶれをなくすために持ってきた。
「よし、おっけい」
 と呟き、メモ帳をリュックにしまい込む。
 ずっと下を向いていたからか、少しだけ頭がくらくらする。普通なら車酔いしそうなものだが、そう言う類は昔から平気だった。
「美月も来れたら良かったのに」 と窓を見る。
 一応誘ってみたのだが、案の定「ごめん無理」と一蹴された。それどころか、
「それより杏、報告よろしく」
 と意味深な言葉に、杏は「バカ」と返して電話を切った。
 美月のにやけ顔が目に浮かぶ。
 二人きりじゃないんだ。大丈夫。と自分に言い聞かせ、いつも使っている一眼レフのファインダをクリーナーで磨く。そうでもしていなければ、今にも心臓が飛び出してしまいそうだった。

 ほんの一時間前――
 遊馬から話を聞いた後、杏は急いで家に帰ってリュックを探した。
「リュック、リュック」と呟いてみても、いつ以来使っていないかも覚えていないし、そもそも捨てていないとも限らない物を探し出すのは一苦労だった。
 見つけた後もバタバタだった。
 久しぶりの天体撮影。ましてや、小学生の頃に父と一緒に撮って以来、一人では一度も挑戦したことがないのだ。やり直しのきかない撮影だけに、なるべく万全を期しておきたい。
 幸い機材は揃っている。撮影の方法も覚えている。……と思う。それでも本棚の奥からカメラ雑誌を引っ張り出し、天体撮影のことが書かれた号をベッドに放り投げた。
「よし」
 と腰に手を当て、今度はクローゼットに手を伸ばす。
 もう五月の終わりとは言え、夜はぐんと冷え込んでくる。薄着は禁物だ。ジーンズと長袖、あと上着。それを手に掴んだまま、んーとしばし悩んだ末、「ま、いっか」とカメラの隣に並べる。
「はい次!」
 パンと手を鳴らし、杏は手早く必要な物をメモ帳に書き出した……

『次は、昭和新山です』
 アナウンスが終点を告げると、杏を乗せたバスはゆっくりとカーブを曲がった。湖畔の白樺を思わせる、緑と白の車体に夕日が差す。
 洞爺湖温泉バスターミナルから道南バスに揺られること十五分。いつの間にか、赤茶けた山肌がすぐ目の前に迫っていた。昭和新山だ。頂や岩場のそこかしこから、うっすらと白煙がたち上っている。それを正面に眺めながら、バスは静かにエンジンを止めた。
 乗り合わせていた数名の客たちがぞろぞろと席を立つ。どの客も皆同じようなリュックを背負っている。
 杏は荷物を背負い直し、よいしょと呟きながら最後に降車タラップを踏んだ。
 真っ先に空を見上る。それから大きく息を吸んだ。
「いい空!」
 雲一つないオレンジ色の空に、自然と胸が高鳴ってくる。
 雲があっては星は見えない。流星群だって当然ダメ。雲は天体撮影の天敵なのだ。
 有珠の中腹にある通称「火山村」は、正面に昭和新山、背後に有珠山の山頂を見上げることができる有数の観光スポットだ。杏も一度、転校して間もない頃に課外学習か何かで来た覚えがある。もっとも、それっきり訪れたことはなかったのだが、地元の観光地など案外そんな物だろう。
 杏はグルリと見渡した。
 バスロータリーを中心に、レストランやショップが軒を連ねている。もう夕暮れだというのに、やけに人が多いのは、きっと流星群のせいなのだろう。その中に遊馬の姿はない。
 時計は5時を少し回っていた。約束の時間まであと10分ほどある。
 杏は散策を決め込むことにした。
 昭和新山の登山口、アクセサリーショップにジャンクフードの露店。その向こうには火山記念館もある。
 正面のログハウス風の建物の一画にはロープウェイ乗り場があって、有珠山頂の展望台に繋がっている。今日もこれの最終に乗って頂上に向かうことになっていた。
「懐かしいなあ」
 土産用のTシャツやグッズを手に取ってみながら、杏はぶらぶらと時間を潰した。
 それから程なく。
「ちょっとお腹すいたかも」
 大きなソフトクリームの看板の前で立ち止まっていると、表のロータリーに止まったバスの影から遊馬の姿が見えた。

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テーマ: 自作連載小説
ジャンル: 小説・文学

 すぐに杏を見つけた遊馬は、往来する車をやり過ごし、小振りのリュックを右肩にかけて歩いてきた。
「待たせたな」
「うん」
 杏はソフトクリームを舐めながら、あれ?と首を傾げた。
「一人?」
「それなんだけどさ」
 遊馬が言いにくそうに視線を逸らす。
「先輩、急にダメになったって」
「嘘!」
「いやマジで」
「えーーーーーーーーっ!」
 ちょっと何それ?と杏が突っかかると、遊馬は「ごめん!」と両手を合わせた。
「担当の仔馬が疝痛起こしてさ、どうしても抜けられなくなったって」
「せんつうって?」
「腹痛」
「そんなの梅干し飲ませば治るっしょ」
「人じゃないんだから」
 馬鹿か?と呆れる遊馬に、杏はソフトクリームを投げつけてやろうかと本気で考えた。
「……で」
 と、代わりにふくれっ面で切り返す。
「どーすんのよ?バンガローってその先輩の物なんでしょ?」
「ああ」
「じゃダメじゃん」
「そうだな」
 遊馬はあっさりと頷いた。
「悪いがまたの機会ってことで」
「えー!ちょっと待ってよ。すっごい急いで用意したのに。見てよこのリュック。アスマなんかより全然荷物多いんだよ」
「重そうだな」
「あったり前でしょ。撮影機材一式よ。何なら持ってみる?大変だったんだから」
「けどさ」
「けどじゃなーい!」
 杏は店の脇にへたり込み、呑気に杏のリュックを持ち上げてみたりしている遊馬をじと目で見上げた。
「楽しみにしてたんだから」
「すまん」
「重かったんだから」
「ホントにごめん」
 でも……と遊馬は続けた。とは言え、相変わらず歯切れは悪い。
「一応さ」
「何?」
「いやその、一応鍵は預かってきたんだ」
「へ?」
 何の?と杏が尋ねると、遊馬は有珠の山頂を指さした。
「使っていいって?!」
 途端に杏が立ち上がる。ところが遊馬は杏を押し戻し、「でもやっぱ無理だわ」と苦笑いを浮かべた。
「何で?今日みたいな快晴滅多にないのよ。せっかく綺麗に撮れそうなのに」
「問題がある」
 そう言って遊馬は言葉を切った。
 そう、重大な問題が。それはつまり、
「先輩がいないってことは、今夜俺とお前の二人っきりってことだ」
「あ」
 杏は立ち上がったまま固まった。
 それはそうだ。元々二人きりじゃないと聞いたからOKしたのだ。それを今さら二人だなんて……
「な。やっぱ無理だろ?」
 遊馬はポンと杏の頭を叩くと、「送ってくよ」と言って杏の荷物を持ち上げた。それでも杏はむくれたままだ。
「今度何かで埋め合わせするから」
 仕方ねえな、と遊馬が杏の手を取ろうとしたその時、館内放送が流れた。

『間もなく本日最後のロープウェーが発車します。ご利用の方はお急ぎ下さい』

 放送は周りの雑音を巻き込みながら、おもむろにブツと途切れた。
 ポリ、と遊馬が鼻を掻く。
 杏が顔を上げると、山頂から降りてきたばかりのロープウェイに乗り込んだ観光客達が、楽しそうに出発の時を待っている姿が見えた。
 ――悔しい。
 それに、考えれば考えるほど腹が立つ。
 本当ならあれに乗って有珠の山頂に向かい、外輪山の遊歩道を歩いてコテージに向かう予定だったのだ。そしたら三脚を置いて、カメラをセットして、満天の星空の中、自分だけの写真をフィルムに焼き付けるはずだった。それなのに……
 途端に杏の足が止まった。
「……おい?」
 遊馬がその顔を覗き込む。何だか嫌な胸騒ぎがした。
「行く」
「は?」
「やっぱ行く」
「行くってお前……」
 遊馬が言い終わるよりも速く、杏は食べかけのソフトクリームを口に放り込み、自分のリュックを引ったくった。
「ちょ」
「早く!ロープウェーが出ちゃう」
「おま」
「絶対!」
 クルリと向き直り、杏は自分より頭一つほど背の高い遊馬の顔を見上げた。
「変なことしないでよ」
 パチリと目が会う。
「当たり前だろ。てか、そう言う次元の問題じゃねーし」
「うるさい!」
 杏は一喝すると、観光客が並ぶロープウェー乗り場へと足早に歩き出した。
「……マジかよ」
 はあ、と深いため息をつく。
 遊馬はリュックを背負い直し、ずんずん人混みに紛れていく杏の背中を慌てて追いかけた。

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テーマ: 自作連載小説
ジャンル: 小説・文学

(四)

 真っ直ぐに伸びた四本のケーブルが、少しずつ眼下に遠ざかるロープウェイ乗り場に吸い込まれていく。へばり付くようにそれを見下ろしていた杏は、昭和新山の背中に見えたオレンジ色の湖面に目を輝かせた。
「あ、洞爺湖!アスマほら!」
「ん」
「夕陽綺麗~。中島って本当に湖の真ん中に浮かんでるのね」
「ああ」
「温泉街も見えるんだ。ママが働いてる旅館もあの辺にあるのよ」
「ん」
「それにしても、有珠って結構高いのね。人とかもう見えなくなっちゃったし」
「ああ」
「……ちょっと」
 杏は座席に座ったまま身動き一つしない遊馬の前で仁王立ちした。
「人の話聞いてないでしょ?」
「ん」
「また。さっきから「ん」と「ああ」しか言ってないじゃん」
「ああ」
 だから何?とでも言いたげに遊馬が杏を見上げる。
「……もしかして」
 壊れたオウムのように同じ言葉を繰り返す遊馬に、杏は何か気付いた様子で目を細めた。
「怒ってるの?自分から誘っといて」
「誘ってねーし。てか怒ってもねーよ」
「ふーん」
 杏の顔が猫のようににやける。
「じゃあ、恐いとか?」
「何が」
「高い所が」
「は、馬鹿言うなよ。個人的にあんまり好きじゃないってだけで」
「ほら」
 鼻を鳴らして反論する遊馬の顔を無理矢理窓の外に向けると、遊馬は目をつむって抵抗した。
「やっぱそうじゃん」
「お前なあ」
 遊馬の眉がピクリと跳ねる。
「さっきからあっちバタバタこっちバタバタ邪魔なんだよ。迷惑だろ」
「ごめんね」
 謝るふりをしてもう一度遊馬の顔を窓に向けると、今度は危うく噛みつかれそうになった。
「止めてよ変態」
「いいから動き回るな」
 子供か、と遊馬に吐き捨てられた杏は、頬を膨らませて眼下を見下ろした。それから小さく息を吐く。
 心臓が脈打っている。それも、いつもの倍くらいの早さで。
「ママ怒るかな」
 ……怒るよね、と額で窓を叩く。
 じっと頂上の駅を凝視している遊馬には、杏の呟きは聞こえない。
 正直な話、勢いで乗り込んだまでは良かった。でも、冷静に考えて、やはり遊馬と二人っきりでバンガローに泊まるというのはもの凄く拙いような気がしてきたのだ。
 雪乃は今日、夜勤のはずだった。それでも何かの拍子に家に帰ってくる可能性もあったから、一応テーブルにメモを残しておいた。たった一行。『流星群を見に有珠に行ってきます』とだけ。
 もちろん、遊馬と一緒だなどとは一言も触れていない。もしバレたらと考えただけで罪悪感に包まれる。遊馬のことは信じてる。……と思う。て言うか、そもそも何とも思われてないだろうし。
「それもどうかと思うけど」
 杏は益々額を窓に押しつけ、一瞬湧いた複雑な何かを押し殺した。
 なおも思考は交錯する。「けどやっぱマズイよね。よし、そうだ、さくっと山頂だけ見て引き返そう!」と拳を突き出す自分と、「でも、だけど」と首を振る自分。分かってる。こんなチャンスは滅多にない。……チャンス?チャンスって何の?
「……おのれ」
 杏はもう一度その複雑な何かを吐き出し、深々とため息をついた。
『間もなく山頂に到着します』
 天井から女性のアナウンスが流れると、ロープウェイはゆるりとスピードを落とし始めた。

 頂上に着いた二人は、重いリュックを足元に下ろし、うーんと大きく伸びをした。ロープウェイから解放されたせいか、遊馬の表情にも少し余裕が戻っている。高所恐怖症にとって、足元がスカスカという状況ほど恐いものはないのだ。
「うわ、懐かし!」
 杏はロープウェイ降り場のすぐ横に作られた木組みの展望デッキに歓声を上げた。
「これあった!小学校の課外授業か何かで登ったのよね」
 言うが早いか、遊馬を置いてさっさと階段に足を掛ける。
 もうすぐ薄暗くなると言うのに、デッキの上はまだたくさんの高校生や観光客で溢れていて、思い思いにカメラを向け合っていた。
 東京の子達だろうか、
「うっそマジで?!」
「何それウケる」
 などと爆笑しながらメイクを直している様子を見ると、あたしって子供だな、なんて思えてくる。
「……高いなあ」
 昭和新山がずっと下に見える。その向こうには洞爺湖も。手すりに身を預けて広大なパノラマを見下ろしていると、
「撮ってやろうか?」
 と、いつの間にかデッキに登ってきた遊馬が手を差し出した。
「貸せよ、カメラ」
「撮れるの?」
「普通の一眼レフだろ?それくらい俺にだって撮れるっしょ」
「ふーん」
 杏は手早く三脚にカメラを据え付けると、まだ数メートル先にいた遊馬に照準を絞った。
「おい杏」
「動かないで」
 夕陽が綺麗だからと遊馬を制し、ファインダーを覗き込んだその時、耳の裏を掻いている遊馬の頭上に、ひときわ光る星を偶然見つけた。
「一番星……」
 ふわりと風が頬を撫でた。
 顔を離して空を仰ぐと、さっきまで夕暮れのカーテンに隠れていた星達が、まるで透かし絵でも見るかのように少しずつその姿を現し始めていた。
 杏の大きな瞳に桔梗色の空が映り込む。
 空は静かに時を越え、遠い昔、杏が父真一に初めてカメラを貸してもらった時に見た黄金色の空と重なって溶けた。
「……杏?」
 どこ見てんだ?と遊馬が杏の視線を追う。
「余所見しない!」
 我に返った杏はスイッチを押して遊馬に駆け寄った。
「動いちゃダメよ」
「え?ああ」
「あたしも一緒に。今タイマーセットしたから」
 杏は遊馬の横で微笑んだ。
 まるで幼い子供のような、屈託のない笑顔だった。
 カシャ、と短いシャッター音が聞こえた時、互いの手の甲が一瞬だけ触れたような気がした。

>>続く

テーマ: 自作連載小説
ジャンル: 小説・文学

やっと書けた。書けました。推敲に丸二日。何とか1000文字!
お題は「嘘」
BGMはずばり、「僕らの夏の夢」山下達郎です。クリックでYou Tubeにジャンプします。
ではどうぞ♪


 ヒグラシが鳴いていた。
 ペンキの剥げたジャングルジムの向こうに、朱色に染まるマンションの窓が並んで見えた。
 ベランダの洗濯物を取り込む人、布団をはたく音。
 買い物帰りのおばさんの影が、長く伸びた僕らの影と重なっては離れていく。
「いち、に」
 と数えながらボールを蹴る。失敗して転がったそれを拾いに行っている間も、あいつは黙々と同じリズムでボールを蹴り続けていた。
 右、左、右、左、
 額に浮かぶ汗を拭おうともせず、飄々とリズムを刻んでいく。
 それを鉄棒にもたれて見ていると、「何?」とあいつが足を止めた。
「えっと」
 僕は咄嗟に言葉を探した。
「明日で夏休み終わりだね」
「うん」
 あいつが器用に足先でボールをすくう。
「……あのさ」と僕は言った。
「そのボール貸してよ」
 あいつはもう一度足を止めた。
「何で?」
「いーから!」
 僕は強引にボールを取り上げ、「返せよ!」と詰め寄るあいつを押し返した。
「今日だけでいいんだ。代わりに僕の貸すから。な、友達だろ?」
 お願い!と手を合わせると、あいつは渋々口を尖らせた。
「明日返せよ」
「おう」
 七時を告げるサイレンが鳴る。僕らは拳と拳をぶつけ、いつものように「また明日」「またな!」と言って手を振った。

 玄関を開けると、下駄箱の脇に段ボールが積んであって、本とか、オモチャとか、色んな物が放り込まれていた。代わりに、テーブルに見慣れない服が置いてあって、
「何これ?」と尋ねると、
「新しい学校の制服よ」と母さんは言った。
「四年生は名札の色が緑色なんだって」
「ふーん」
 制服のことなんてどうでも良かった。
「俊希くんとちゃんとお別れできた?」
「うん」
 僕は曖昧に頷いた。
「……ごめんね」
 と母さんは目を伏せた。今度は長くいれると思ったのにね、と髪をかき上げた横顔に、僕は笑顔で返した。
「見てほら!サッカーボールを交換したんだ」
 ボロボロに使い込まれたあいつのボールを得意げに見せると、母さんは少しだけ笑ってくれた。

 次の日の夕方、走り出した車の窓から、いつも二人でいた公園でボールを蹴るあいつの姿が見えた。
 右、左、右、左、
 見慣れたリズムが胸に響く。
 離れていく。
 あいつの背中が小さくなっていく。
 ごめん、ごめんな、と唇を噛み、あいつのボールを抱きしめていると、不意に父さんが車を止めた。
 顔を上げると、助手席の母さんと目があった。
「すぐ戻るから!」
 ボールを抱え、転げるように車を飛び出した僕の頭上に、夕焼け雲が広がっていた。

.

テーマ: 自作連載小説
ジャンル: 小説・文学

 外輪山の遊歩道をしばらく歩くと、山頂に向かって分かれる道があった。
『この先私有地』
 と書かれた看板の横を抜け、薄暗くなり始めた砂利道を登る。
 人気はほとんどなく、月明かりと街灯に照らされた広い道の頭上には、緩やかな有珠の頂と満天の星空が広がっていた。
 けして寂れた場所ではない。
 むしろ神秘的と言ってもいいその光景に、杏は一瞬で心奪われた。
 来て良かった、と素直に思う。
 遊馬がどうとか関係ない。あの時、一番星を見つけた時、じゃあ自分はどうしたいのかと考えた。答えはすぐに見つかった。すると、まるで氷が溶けたかのように杏の中で迷いが消えた。下山しようかと悩んでいたのが嘘のようだ。
「……素敵」
 思わずため息が溢れる。
 その横で、遊馬が牧場の先輩にもらった地図を手に、「あそこだ」と顔を上げた。
 虫の音が聞こえる。
 標高のせいか、あるいは火山特有の土壌のせいか、あたりには木らしい木は一本も生えていない。ゴロゴロとした石や岩や、そこににへばり付くように群生する高山植物があるばかりだ。雑風景と言ってしまえばそうなのだが、大地と空を遮るものが何もない、手を伸ばせば星空に届いてしまいそうなその感覚に、杏は心洗われる思いがした。
 遊馬が先に立って歩く道の先に、目指すバンガローは建っていた。よくあるキャンプ施設と同じで、似たような造りの丸太小屋が何戸も並んでいる。どの窓からも明りが漏れているところを見ると、どうやら遊馬とまったくの二人きりというわけではないらしい。
 ホッと胸をなで下ろし、鍵を回した遊馬の後について玄関を跨ぐ。パチリと乾いた音に一瞬遅れて、天井のランプに火が灯った。
「うわあ」
 思わず目が丸くなる。
 バンガローの中は、思いの外綺麗だった。そこかしこに蜘蛛の巣や虫の死骸が転がっている部屋を想像していた杏にとって、これは嬉しい誤算だった。
 入ってすぐに簡易の台所があり、シンクの下には小さい冷蔵庫もある。廊下とも呼べないほどの短い通路の先に、狭いダイニングと二段ベッド。さすがにテレビはなかったけれど、空気清浄機があるのは有り難かった。そして、
「これなら十分置けるだろ」
 ダイニングのカーテンを開けた遊馬が、杏のカメラ道具を見て言った。すぐにそれと気付いた杏が、目を輝かせて靴下のままウッドデッキに飛び出す。
「嬉しい!これならレベル取るのも楽だわ」
「レベル?」
「カメラを水平に据える事よ。普通の撮影なら気にしないんだけど、今日はしっかり撮りたいから」
「なるほど」
 遊馬は荷物をベッドに下ろすと、中から雑誌を取り出した。
「何それ?」
 杏がウッドデッキから顔を出す。
「流星群の特集が載ってたんだ。11時くらいがピークらしい」
「ふーん」
 杏は柱時計を見上げた。
「まだ4時間もあるのね」
「だな」
 遊馬は雑誌をテーブルに置き、再びリュックを漁りだした。
「今度は何?」
「飯。腹減ったろ」
「あたしも買ってきたよ。トン平ちゃん」
 杏はバタバタとダイニングに戻ると、部屋の隅に放り投げていた自分のリュックからカップ麺を取り出した。
「知ってる?これ結構美味しいのよ」
「はは。ま、それもいいけどカレーにしようぜ。俺が作ってやるよ」
「ホントに?!」
「任せろ」
「てか、アスマ料理できるの?」
「一人暮らしだからな」
「……そっか」
 杏はカップ麺をリュックに押込み、小声で「しまった」と呟いた。
 手際よく野菜を洗い始めた遊馬の背中を見つめながら、また美月に怒られるな、と肩をすくめる。
『あのさ、そんな時こそ女子力を見せるチャンスでしょ?』
 大失敗だわ……と、これ見よがしにため息をつく親友の姿が目に浮かぶ。
「はいはいごめんなさい」
 杏は口を尖らせ、撮影用の機材をウッドデッキに運び出した。
 どう良く見繕っても、自分が「出来る子」じゃないことくらい分かってる。ママのようにはなれない。美月のように賢くもない。悔しいけれど、そんなことはもうとっくに諦めている。自分は自分。それでいい。背伸びしてカレーを作ろうとしたところで、失敗して遊馬に笑われるのがオチだ。
「あたしは忙しいの」
 などと無意味な言い訳をぼやき、三脚の脚を伸ばしていく。
「……そう言えば」
 ふと杏は顔を上げた。
 遊馬はさっき、「一人暮らしだから」と言った。
 以前、遊馬は「訳あって」メイジ牧場で働いていると言っていたことを思い出す。実家は静内の小さな牧場だとも。それに、こうも言っていた。
『手塩にかけて育てたって、二束三文にもならない馬はたくさんいる。馬産が儲かるなら、潰れる牧場なんかあるもんか』と。
 つまり、そうなんだ。と手を止める。
 遊馬の言葉の断片から、彼の家族に何があったかくらい容易に想像がつく。
「……さてと」
 杏はつまらない詮索を振り払うように、うんと大きく伸びをした。
 地平線に沈んだ太陽が、空にゆっくりと星達を返していく。
 これからが本番。
 朱色から紫、そして濃紺へと移りゆく空に、一片の雲もない。
 こんな絶好のロケーションで撮影できる機会など、もう二度とないかも知れない。
 三脚にカメラをセットし、方位磁石を空にかざす。北極星を見つけるには、カシオペヤか北斗七星を探せばよい。
「あれだ」
 杏は持ってきた雑誌を手に、お目当ての星に照準を合わせた。

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楓 十色

Author:楓 十色
仕事との両立に悪戦苦闘しながら、それでも物書きを止められない人。工学博士(防災工学専攻)、技術士(建設部門)。

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※二度踏みノーカウント
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